あたしはいわゆる、今で言うヤンキー(今でも言うんかの?)で、不良で、不純な人間じゃった。
長野の田舎町で、とにかく目立った存在じゃった。
当時それでも、手に職をつけることが女子にとっちゃ重要事項やったけん、友達と一緒に看護の道に進んだ。
学べば学ぶほど素敵な時間で、しかし、あたしにとっては辛くてしんどくって、ついつい男を欲してしまった。
そうじゃよ。ご想像通り、学校の先生といけない仲になってしまった。
とはいえ、愛しとった。年上の、可愛い人でな。嘘をつけない、真っ正直な人やった。この人が一人目の旦那になった。しかも、できちゃった結婚。学校にはおれんようになって、旦那は結婚したとたん、岡山に転勤扱いになった。いわゆる左遷じゃの^^
私は岡山の倉敷で、看護師として全力を尽くした。旦那は毎日遅くまで働いてヘトヘトになって帰ってきた。
しかし、すれ違う夫婦の溝は深まるばかり。5年後の旦那の転勤に、ついていくことをやめたから、自動的に離れて暮らすことになり、離婚した。
娘はあたしたちの離婚について、多くを語ったことはない。
お母さんの思ったことが一番大事と、わかったふうな口をきく、当時5歳のおませな娘だった。
娘はびっくりするくらい髪が綺麗だった。何も特別なことをしていないのに、いつもツヤツヤでサラサラ。近所の方々にも先生にも羨ましがられたほどだ。小さく結んだ唇は、あたしに似ていて、意思の強さと頑固な性格を表していた。笑うと右の頬にエクボができて可愛くて、何か悪戯してもそれを見たら全部許してしまうくらい悪魔的なエクボだった。
成長するにつれ、あたしができないことを進んでやってくれるようになった。
あたしは朝が弱い。
我が家は、玄関の外に新聞受けがあったため、寒い冬などは一旦外にでなければ新聞は取れなかった。それを知っていて、朝起きるとすぐに新聞を取りに行ってくれた。しかも、私がやったよ!とは言わず、テーブルの上に置いてあった。
そしてあたしが夜勤の時は、旦那の朝御飯を作ってくれていた。
パンを焼いて、目玉焼きを作り、コーヒーを入れる。
それだけなのだが、それも頼んだわけではなかった。
大人が喜ぶことを、わかっているかのような賢さがあって、それを全くひけらかさず、あたしの支えになってくれた。
まるで、自分の命が短いことを知っていたかのように。丁寧に、優しく、懸命に。
彼女が遺してくれたものは、今でもあたしの宝物じゃ。
9年間という短さで、この世を離れた娘に、もうすぐ会える。
でも、まだ死なんよ。
やるべきことをしてからじゃ。
姪の言葉に発奮しこうしてiPadを買い、誰に頼まれたわけでもないけどこうして文章を書き、自分の人生を振り返りながらこうして指を動かしている今、充実しているんじゃ。
娘を受け入れてくれたオット、のぶさん。のぶさんを「お父さん」と呼んで懐いてくれた娘。二人が今、あたしを空から見て笑ってくれているのがわかる。
あたし、この命、ちゃんと燃やし切ってからいくからね。待っとってね!
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