ゾンビさっちゃんのラブ全開!

もうすぐ70歳になる余命宣告を受けたがんサバイバー。 病室でブログを開設!

教育講演会「母の愛」9 必ず光はある

<昨日の日記>の続き

中学校の進路指導は難しい。

あたしも、オットが経営していた塾の関係で、問題山積みの修羅場を何度も経験させてもらっている。親の希望、本人の夢、学校の思惑、友人の志望先、恋人との喧嘩、親との確執、などなどなど、それぞれが絡み合って、ストレートにいく進路決定はほぼない。

くまさんの進路も、なかなか厳しいものがあった。

その理由は、成績。お話を聞いていると、進学は諦めなくてはならないほどのもの。しかし、そのくまさんのために全てを捧げてくれた先生がいた。

その先生の母性は、くまさんを高校への進学を可能にしてしまったんじゃ。

まあ聞いてくだされ

僕の中学時代は本当に、アホでした。勉強のコツを覚えたのは高校の2年生ですので、それまでは国語以外は全滅でした。本当です。

当時はまだ発達障害という言葉も出回っていなくて、僕はなぜ、ある一定のレベルに到達すると、それ以上の理解ができなくなるのが、いつも不思議でした。

できないことはとことんできず、できることは誰よりも早く結果を出せました。

3年生の時の担任は、国語の先生で、言葉というものをとても大切にしておられました。僕のテストの成績が悪いのを見て、何度もその理由を確かめようと、僕にさまざまなアプローチでヒヤリングを行なってくださいました。僕の話をとにかく丁寧に聞いてくださったのです。つまりこれは、カウンセリングですね。

そのたびに先生は言いました。

「あなたのいいところは、その声、笑顔、素直さ、真面目さ、心の柔らかさ・・・」

言った後、ふーーーーっと深い息を吐くのです。先生が何かを考えるときの癖です。

で、しばらく経った後、

「よし。じゃあ、2組の先生に預けるか。」

と、勝手に決めて、僕を2組の担任の先生に紹介するのです。技術の先生で、とても穏やかな優しい先生で、休み時間に僕に木彫と版画を教えてくれました。

その後も、いろんなスペシャリストな先生に僕を預けてくれて、僕は、勉強よりも先生方の持つ魅力的な技をどんどん吸収していきました。

3年生の時に先生方に習ったことは、色々あります。

木彫と版画で彫刻刀とノミの使い方をマスターしたこと。

けん玉は准初段まで。

書道は四段の先生に手習をしていただき、草書を教えていただいたこと。

赤十字の活動に参加させていただき、福祉の心の種をいただいたこと。

その関係でボランティアに参加し、さまざまな施設にお手伝いに行けたこと。

その紹介で、保育園で紙芝居の真似事をさせていただき、子どもたちの歓声にしびれまくったこと。

実はそこで初めて、ああ、僕は子どもと接することが好きなんだってことに気付かされました。

なんで好きなんだろう。

あ、うちは駄菓子屋だもんな。

と気づきます。

母が、家の一階にあるクリーニング店を半分にして改装し、駄菓子屋を開いたのです。そこには子どもたちがたくさんやってきました。子どもたちの笑顔がたくさんありました。僕もたまに店番をして、大笑いしてました。

そっか。子どもたちがワクワクする顔を見ていることが、僕の喜びなんだと気づけたのです。

僕はこのあたりで、やっと進路が見えてきました。

そういえば、そういえば、という記憶が蘇ってきて、自分の趣味嗜好が全て子どもの笑顔につながっていることに気付いた時は、担任の先生に思わず言いました。

「先生、僕、やりたいことが見つかった!!」

先生はニコッと笑って、

「ならば、あなたは高校に行きなさい。」

と言いました。

そこでようやく、授業に身が入るようになり、先生の言っている言葉の意味がわかるようになってきました。

ある日先生は、成績が少しずつ上がってきた僕を捕まえて、

「今日、あなたは委員長に立候補します。大丈夫。あなたならできる。」

と耳打ちしたのです。

「いやいやいやいや無理無理無理。先生。僕は、委員長は無理です。」

前期の委員会、僕は風紀委員でした。後期は、交通委員になりました。クラスで決める委員です。放課後、全校の各委員が、決められた教室に集まり、委員長と副委員長を選別する時間があと10分後に迫っている時でした。

つまり、あなたは交通委員長に立候補しなさい。

という意味で、背中をパンと叩きながら言ったのです。

僕が、絶対にそれは無理ですーーー。と先生の後ろ姿に向かって叫びましたが、スルーしされてしまいました。

さあドキドキです。

最初、自分で立候補するなんて気は毛頭ありませんでしたので、気楽なものでした。賢くて真面目で、素敵な人たちだらけの中で、立候補するなんて僕にできるでしょうか!

議長が言います。

「では最初に、交通委員長を決めたいと思います。誰か立候補はありませんか?」

と言われた瞬間、右手が上がってました。隣の友人は、目をまんまるにして、ええーーー?お前が?みたいな顔をしています。

自分でも、

「え?ええーーーーーーっ!なんで今、手を挙げてるんや〜!!!」

と我ながら、素直すぎるというか、暗示にかかりやすいというか、先生の言葉の魔法にかかってしまっていたというか、なぜ手を挙げたのかわからないまま、立候補が一人だけだったので、自動的に委員長になってしまった訳です。

交通委員長の仕事は、給食の時間に3分間、放送室から交通安全のスローガンの唱和と、安全小話を2分間マイクの前でしゃべる役目でした。

原稿を読むことと、自分の声が放送で全校生徒に聞いてもらえる感動と、物語を毎日、安全をテーマに作ることができる楽しさで、緊張しながらもとても楽しく委員会生活を送ることができました。

そしてようやく、もっとドキドキの高校受験がやってきます。その時、また先生が僕に囁きました。

「あなたは、必ず合格する。心配いらないから。緊張せず、堂々と、自分の名前を書いてきなさい。あなたは、T高校に入ります」

そうは言われましたが、やはり緊張。手に汗をかきすぎて、鉛筆がツルツル滑るもので、ああ滑る滑る。と言っていましたら、後ろから先生にパコーンと叩かれまして、

「縁起が悪い!阿呆!」

と言われて、何が縁起が悪いのかわからず、ポカーンとしている間にテストが終わっていました。

つまり、僕の答案用紙は、出した時点で不合格を表していました。

先生には、正直に言いました。国語以外、全部ダメでしたと。

先生は、それでも、

「あなたは大丈夫です。私が保証します。もしダメでも、大丈夫。」

そこまで言い切れたのはなぜなのか。

その理由は、高校に入ってわかりました。初夏です。授業中、うとうとする癖がある僕は、職員室に呼び出されまして、担任の先生に早く入ってきなさいと手招きされました。

叱られる。。と思って恐る恐る職員室に入ります。

そして、

「本当はあかんけど、あなたにだけ見せるからね。こんなことは、初めてだけど、これをあなたは絶対に読むべきだと思って、先生方と相談して決めました。」

と言って一枚の紙を僕の目の前で開いて見せてくれました。

そこに、答えが書いてありました。

高校受験は、テストの結果だけではない時代がありました。それは、内申書、という存在です。その内申書は、生徒には見せてはならないという約束があります。その約束を破ってまで、僕に見せた高校の担任は、僕の授業態度があまりにも緩かったため、それを見せて何かを変えたかったのだと思いますが、、思惑通り大変化させられました。

中学3年時代の担任のY先生は、内申書にこう書いてくれていました。

「この子を合格させてください。きっと社会の役に立つ子です。好きなことや興味のあることにはすごい力を発揮します。逆に、興味のないことはからっきしだめです。しかし、何より友達を思いやる、教師を思いやる、親を思いやる、弟妹を思いやる、優しい子です。いじめられた経験を克服し、友達をたくさん作り、最後は一番難しい役割の、交通委員長で締めくくりました。誰もが嫌がることを率先してやり、誰もが喜ぶことを一番に考えることができる子です。中学ではやらせてあげられることに限界がありました。高校では、もっと新しいことに挑戦させてあげてほしいのです。そして、大学に行かせてやりたいのです。この子は学べば光ります。よろしくお願い申し上げます。合格させてください。」

コピーはダメだったので、メモさせていただきました。欄外に飛び出して書いてある先生の文字を書き写している間、職員室でポロポロ涙がこぼれて止まらず、先生が僕を高校に行かせるためにやってくれたさまざまなことを思い出して、感謝の気持ちが溢れて止まりませんでした。

T高校では、3年間同じ担任の先生が僕を育ててくれました。そして、中学の担任からのお願いを、とうとう達成してくださいました。成績のドンベタの僕を、大学にまで押し上げてくれたのです。作文コンクールで優勝させ、英語の弁論大会で3位を取らせ、海外留学までさせてくださったのです。それはそれは新しい経験をたくさんいただき、大学へ推薦してくださいました。

卒業する時、先生は、

「約束は守りました(笑)と、いつかY先生に伝えてね」

と僕に囁きました。

それから13年後。

僕は福井で三兄妹でパソコン教室を起業することになり、そこからさらに9年後、三兄妹でバンドをすることになり、さまざまな学校でいじめ撲滅のコンサートを開始することになりました。すべて今も続いています。

ある日。バンドのコンサートが終わって、後片付けをしている最中、僕の肩を後ろからパンと叩く人がいました。

振り向くと、小さくなった中学時代の恩師。Y先生が立っていました。

「元気?」

僕は、「あ!Y先生!!!!!」と絶叫し、号泣。

思わず抱きしめました。

「先生のおかげで、今の僕がありますぅ!ありがとうございまじだああああ!」

うわずって聞き取りにくかったと思いますが、やっとお礼が言えました。高校のH先生からの伝言「約束は守りました」というメッセージも伝えました。

そして先生は、うんうん。とうなずき、笑顔で涙ぐみながら、僕の肩を抱いて、先生が連れてきたお友達の皆さんに僕を紹介してくれました。

「この子が私の自慢の生徒です。この子は、私の自慢の生徒。中学の時の、教え子。私の自慢!」

と何度もおっしゃってくれて、恥ずかしくて嬉しくて。また涙。

さらに先生は、本当に自慢そうに、僕が地元に帰ってくるまで、大学はどこで、奈良から大阪に行き、仕事は何をしていて、今なぜこんなことをしているかをお友達に語ってくれました。

「先生、それをどこで?」

と聞くと、笑って、

「あなたのことはいつでも見てますよ。あなたはこの社会を明るくする光ですから。どこからでも見えるんです。これからもどんどん輝きなさい!」

そしてまた背中をパンと叩きました。

ちなみにこの先生だけは、絶対に体罰を行いませんでした。どんなに生徒が道にそれても、言葉の力を信じていました。言霊というものかもしれません。相手が理解できるまで、根気強く教え諭していました。

テレビチャンピオンという番組にも漢字博士として出場したことがあるくらい、言葉の使い方に精通されている先生でした。

僕の担任になってくださって、心から感謝しています。

僕の第二の母であると思っています。今は、天国で、、、、見守ってくださっていると思っています。





はい。そろそろ、お時間となってきました。

早いものですね。

おしまいに、今日のお話のまとめをいたしまして、本題とさせていただきたく思います。

母の愛とは何か。

です。


つづく

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